※精神的にきついお話です。要注意。
貴女が遺したものは、どこまでも、残酷でした――。
■ 訃報
それは私が仕事から帰宅し、鍵の束から自室のそれを探しながらエレベータを降りる直後だった。
体が自然と自室に向かうように、足先が右側に向いて進む。
まだ鍵が見つからず下を向いたまま、角部屋にあたる廊下の最奥へ。
私の履くブーツのかかとがコンクリートの地面を鳴らす音よりも、ジャラジャラと絡む鍵の音に顔をしかめていた。
「あっ、た……」
玄関の鍵が見つかり、表情がほころぶ。
それも束の間。すぐに目を見開く。
「……なっ」
玄関の扉の前に男がうずくまっている。
「……久しぶり」
それは、もう何年も会っていない姉の夫。
私は驚きのあまり手にしていた鍵の束を地面に落としてしまった。
互い距離を詰めることなく見合ったまま、私の問いに答えない義兄。
黙ったまま今にも泣きそうな彼に向かって、震える唇を開く。
「なに、何しに来て……」
「え?」
同じく声の震えた義兄に、私は首を傾げる。
「ミキ、死んじゃった……」
「……え?」
姉の訃報に、また、目を見開いた。
■ 理由
それは突然の交通事故だった。
大型トラックが、歩道を歩く姉に向かって突っ込んできたとのこと。
道路にブレーキ跡がない事から、運転手が居眠りしていたことがわかった。
姉は、即死。
状態は、とても口に出来ないと、義兄はソファに深く腰を降ろし、頭を抱えた。
私はキッチンのコンロにかけていたケトルが沸く音に気付いて、静かに立ち上がりキッチンへ向かう。
そして、あたたかい緑茶を注いだ湯のみを持って戻ってくると、まだ頭を抱えたままの義兄の傍へ近づく。
「熱いから、ゆっくり飲んで」
「……」
私は膝ついて湯のみを置くと、義兄はそれをちらりと見て「ありがと」と呟いた。
「ネネは?」
「……実家に預けてきた。お義父さんとお義母さんは……」
「寝込んでるでしょ。父さん達、姉さん溺愛してたから」
私は苦笑し、そのまま脚を崩して座る。
実家とは疎遠状態。
ある出来事をきっかけに、私は単身家を飛び出して以来、ずっと一人で生きていた。
「それでここへはわざわざ知らせに来たの? 連絡だけしてくれれば……」
「……っ」
「義兄さんっ!!」
義兄が突然身を乗り出し、私の体を抱きすくめる。
私は咄嗟に押しのけようと両手で必死に胸板を押すも、そこは男、弱っていても、かなわない。
「やだっ、放し……」
私は俯いてなけなしの力で抵抗する。
「……っ」
「っ!」
でも、ムリだ。
「ミホ……っ」
そんな泣き声で、名前呼ばれたら、拒むことなんてできない。
「……んっ」
私はじっとただ見つめてくる義兄の、震える唇を黙って受け入れた。
■ 過ち
『ずっと、好きだったんだよ?』
『……』
『私じゃ、ダメ?お姉ちゃんよりも、私!!』
それは、結婚式前夜。
彼をムリヤリ呼び出した。
私の切羽詰った様子に、彼は慌てて駆けつけてきた。
最後の足掻き。
幼なじみだった彼への、一途で、なけなしの純情で、思いの丈をぶつけた。
『ゴメン』
そんな私に、彼は深々と頭を下げた。
わかっていた。
だから、謝れるのが、辛かった。
それでも、諦められなくて。
『一度だけで、いいから……』
私は、彼を誘惑した。
彼は初めての私を、壊れ物でも扱うかのように優しくしてくれた。
それは甘美で、けれど。
『……っあ』
『ミホ……』
どこまでも切ない、優しさだった。
翌日、私は笑顔で二人を祝福した。
けれど、心では、泣いていて。
報われなかった、一途な初恋。
私はそれから一週間後、実家から出て行った。
◇
「……んっ」
目を覚ますと、そこはベッドの中。
気だるい体で身じろぎ、ベッド脇の棚にあるデジタル時計へ手を伸ばす。
「っ!」
私の腹部を圧迫する感触に、思わず驚きの声が出そうになった。
上手く働かない頭で整理できず、咄嗟に頭を後ろに向ける。
「……」
静かに寝息をたてる、義兄の姿。
体を少し起こしているから浮き上がった掛け布団の隙間からのぞくのは、一糸纏わぬ体と、私を抱き締める腕。
「ふっ……」
こみ上げてきたのは、かつて味わった途方もない切なさ。
「う、ぁっ……」
時や、状況は違えど、流す涙の意味は同じだった。
■ 真意
翌朝、身支度を済ませた義兄は部屋から去った。
これからどうするのかとか、娘のネネのこととか。
そんな話は、何一つなかった。
◇
それから、しばらくして。
司法解剖を終えた姉が、実家へ無言の帰宅をした。
その日に行われた、通夜でのこと。
「……久しぶりに、ミホが帰ってきてくれたのに」
心労を押して遺族席に並ぶ母の隣で、私はただ淡々と参列者に頭を下げ続ける。
私は義兄とのことでの後ろめたさもあったが、何かにつけ自分を姉と見比べてきたこの母に対しても、居心地悪いものがあった。
母を挟んで、放心状態の父が立ち尽くしている。
時折声をかけられては、その隣に居る義兄が変わりに応えるの繰り返し。
参列者は、居たたまれない様子で、私たちを見つめてその場を去っていった。
もう深夜に差し掛かり、訪れる人ももう葬儀に見えるだろうと思われた。
若干眠気もきていた私はぼんやりと奥の扉のほうを見やる。
「……?」
少しだけ開かれていた扉の隙間から、何かかが飛び出してきたのがわかった。
私は首を傾げて見つめていると、それはこちらに向かってくる。
それが何なのかすぐに理解できず。
「え……」
「ネネ!」
気づいたときには私の脚に、まだ幼いネネ、姉の子供がしがみ付いていた。
義兄の両親が、奥の部屋でお守りをしていたはず。
何があったのかわからないが、ネネが脚の間の窪みに顔を埋め、がっちりしがみ付く。
戸惑いながらもただ見下ろしていると、父である義兄がネネの腕を掴む。
「ネネ、離れるんだ」
「……」
少し低め声にネネは耳を貸さず、黙ったまま更にしがみつく腕を強くする。
「ネネ……」
「どうしたの?怖い夢でも見た?」
努めてやんわりと、優しくネネの頭を撫でて声をかける。
すると、とんでもないことを口にした。
「ミホちゃんの子になるっ」
「え……?」
言葉の意味がわからない。
実家を飛び出して以来、実家に電話すらしなかった私。
そんな自分が、出産報告の写真でしか見たことないこの子に、なぜそんなことを言われるというのか。
私は姉とはあまり似てるほうじゃない。
「ネネちゃん。ミホお姉ちゃんはママになれないのよ?」
その場にしゃがみこむ母が、うろたえた様子で諭すように言い聞かせる。
けれどネネは、必死に首を横に振って聞こうとはしない。
私は疲れから冷静に物事を考えられなかった。
このままネネを引き剥いでさっさと出て行こうかとさえ思った。
けれど、それよりも早く義兄がネネを私から強引に引き剥がす。
「やっ!?」
「あっ!」
ネネに服を引っ張られ、足元がふらつく。
すると、義兄が咄嗟に抱きとめて支えてくれた。
抱きしめてくる腕の強さに、先日の夜の情事が脳裏に蘇る。
「義兄さん……っ」
「すみませんお義母さん。ネネを寝かしつけて来ます。ミホちゃん……」
名を呼ばれ義兄を見上げると、鋭い眼光を放っている。
なんとも言えない恐怖を感じ、私は慌ててネネに視線を向ける。
「ネネちゃん。私も一緒に行くから。ネンネしよっか」
「ミホちゃんも、ネンネ?」
「……うん。一緒にネンネ」
愛らしいくも、不安げに見上げてくる大きな瞳に向かってニッコリ微笑む。
「ミホちゃんとネンネ!」
ネネは心底うれしそうに、屈託ない笑顔を見せてくれた。
◇
そこは葬儀場の仮眠室。
中にいた義兄の両親たちと入れ替わり、私たちは寝台へネネを連れていく。
寝るには硬く薄い布団の上に、ネネを抱きかかえたまま横になる。
その隣に、義兄が腰を下ろした。
「ミホちゃんは、ずっといてくれるんだよね?」
すでに決められているかのような問いかけに、私は一瞬言葉に迷う。
「私は、お仕事があるから、ママのお葬式が終わったら帰らなきゃいけないの」
ゆっくり、優しく語るも、ネネは言われている意味がわからないという表情で私をじっと見つめる。
「ちがうよ。ネネはミホちゃんのこどもになるから。ずっといっしょなんだよ」
「なに……言って」
さっきもそんな事を口走っていた。
母親を失ったショックから気が動転しているのだと思う。
「あのね、ネネちゃん……私はあなたのママとは……」
「そうだね。ミホちゃんはネネのママになるんだもんな」
「……義兄さん?」
ネネに微笑みかける義兄に、私は目を見開く。
けれど、義兄が私へ視線を向けた瞬間。
「……っ!?」
「そうだろ?」
我が子をあやす、父の眼差しではなく。
女を欲する、男の眼をしていた。
「にっ、んんっ!?」
突然後頭部を掴まれ、無理やり引き寄せられたかと思ったら、激しく、絡め取られるような口付け。
「ふっ、あっ……」
子供の居る前でと、必死に下に目を向けると義兄が掌でネネの眼前を覆っていた。
「何、余所見してるんだ」
「やっ!?」
体勢が崩れて、義兄にの腕の中に倒れこんでしまった。
咄嗟にネネを踏みつけないように体を浮かし、思わず義兄を見上げると、塗れた唇を舌先で舐め上げていた。
こんなときですら、ゾクリと体が戦慄く自分に嫌気がさした。
「そんな顔しないで」
「するに……決まってるでしょっ」
「これは、君の姉さんが望んだことなんだから」
「え……」
この男は、何を言っているんだろう。
「彼女は何よりも君を優先してきた、死ぬその瞬間まで、それは変らなかった」
射抜くような視線を向けたまま、淡々と語る義兄の表情は崩れず、言い放った。
「彼女は、この子に言い続けた」
ミキは、次のママはミホだとネネに植え付けたんだ――。
■ 遺志
私は姉のものをいつも欲しがっていた。
着るものも、食べるものも、使うもの全てが、欲しくて堪らない。
同じものを与えられても、どうしても姉の持つものがいいように思えたから。
だから欲しくなると私は、いつも駄々をこねた。
両親はそんな私を必ず厳しくしかる。
けれど私は欲しがり続けた。
すると最後には――。
『ミホが欲しいなら、これあげる』
姉は必ずそれを譲ってくれた。
一度だって、くれないことはなかった。
けれど、あの時だけは――。
『お姉ちゃん! 結婚なんてやめてよ!!』
『……』
『お姉ちゃん知ってたでしょ! 私が、私がずっと!!』
『……ごめんね』
『!?』
あの時だけ、初めて、姉は私のワガママを聞き入れなかった。
だから私は、自棄を起こし、実家を出て行った――。
◇
私は、義兄の頬を平手打ちにしていた。
だって、ネネを、姉が、そう躾けたって。
「何、馬鹿なこと言ってるの。ネネは、お姉ちゃんの……」
「ミキの子供だ。紛れもなく、俺との間の」
その言葉に、ずきりと胸が痛む。
このごにも及んで、私はまだこの男を。
「この子はミキが産んだ子。けれど、この子は……」
――ミホの為に産んだ子だ。
「……は?」
頬を叩かれた勢いで、俯いたままの義兄。
私はその言葉の意味に気付く。
「……まさか」
ひとつだけ思い当たることがある。
私は両手で口を押さえて俯いた。
「まさか……お姉ちゃん」
「……」
「義兄さんも……?」
「……」
「お姉ちゃんも、アンタも!! 私が子供埋めない体だから!!」
気づいたら私は義兄の襟首をつかんで締め上げていた。
私たちの間で、きょとんとした表情のネネが見上げている。
彼は苦しいそぶりも見せず。ただ黙って、私を見つめていた。
「何、もしかして……私に、子供ができないからって」
「そうだよ」
「何よ、それ……」
「それに」
「何よ、今度は……」
「ミホはいつだって、ミキのものを……欲しがってたから」
その言葉に、私は言葉を失った。
あまりの事実に脱力し、彼から手を緩めた私はそのまま俯いた。
「……なんとか、いいなさいよ」
「言わないよ。俺の本心を言ったら君はきっと、俺を許さない」
「……」
「それに、ミキにとって辛いのは、ミホに……、」
この世で何よりも愛する君に、忘れ去られてしまうことだから――。
姉はいつだって、私が欲しがるもの全て与えてくれた。
それはいつだって、例外でなく。
きっと、あの時の『ごめんね』は。
「私は、お姉ちゃんのものが、欲しかっただけじゃない……」
「……あぁ」
「お姉ちゃんみたいに、なりたかったの……お姉ちゃんが、」
お姉ちゃんが、好きだったから――。
その想いは、同じなのだろうか。
私達の抱いた想いは、カタチは違えど、その本質も違うのだろうか。
私はズルズルと、その場で泣き崩れた。
唇をかみ締め、嗚咽を混じりになき続ける私に、小さな手が何度も頭を撫で、大きな掌が優しく背中を摩ってくれた。
この事故は、本当に偶然だったのかもしれない。
けれど、姉が秘めていた想いは、確実に――。
『ミホが欲しいものは、お姉ちゃんが全部あげる』
この男と娘という鎖で、私の心を――。
end